2018年9月26日水曜日

2018年9月26日(水)

初めてお手紙を書きます。
近頃は蝉の合唱で目覚め、クーラーをつけたまま寝るのが苦手な私は、もわっとした部屋の中で少しばかりごろごろと過ごします。

明日は、今まで生きてきた中で一番好きだった人と4年ぶりに会います。

その人は大学の入学式で一目惚れをし、3年片想いし続け、4度振られた後、ようやく付き合えた人です。でも、今となっては本当に自分がばかばかしく思えてしまうような事の積み重ねでお別れしました。それから4年が経って、何となく連絡を取り合うようになり、会うことになりました。

明日の私はうまく話せるでしょうか。
今の私はあの頃の私と違って勝気な気持ちも忘れかけ、縮こまってばかりいます。ごはんだって全然食べられません。
何を話そうかと2、3日考えて思い浮かびませんでした。きっとこれは、背伸びをせず、そのままで向かって行けってことなんだと思います。

そんなことより、あの時直接言えなかった「ありがとう」や「ごめんなさい」を一番に伝えようと思いました。
私とその人は、もしかしたらもう会うことはないかもしれないし、伝えられる間にきちんと言葉にしなければと、この4年間でやっと気づいたのです。それが家族や友人や大切に想っている人、誰であったとしても。

明日の私は、どんな風に笑うのでしょうか。

【筆名:ましろ 年齢:26歳 都道府県:福岡】

2018年9月19日水曜日

2018年9月19日(水)

今日の天気は、くもり時々雨。気温は18℃です。
なんだかすごく水曜日っぽいですね。
水曜日の物語で、水曜日は「人にやさしくする日」と紹介された手紙を読み、私も中だるみしやすいからこそ水曜日は人にやさしくしようと。そう決めてから今日は初めての水曜日です。
「人にやさしくする日」第1日目の今日。
私は何をしたかというと、人にお茶をいれてあげた。ただそれだけです。当たり前のことですね。
私は障がいがあり、障がい者用の事務所で働いています。周りも色々な障がいのある方が見えます。
知的、発達、身体、精神、様々です。
そこの事務所で働き始めて半月程ですが、仲の良い方が出来ました。
その方は身体の障がいがあり車いすで生活しています。
その方をIさんとします。Iさんといつものように「おはよう」の挨拶を交わします。
その後、用意されたお茶をコップにいれて席につき、お喋りするのがいつもの流れです。
でも、今更なのですが気づいたのです。お茶とコップの位置が高くて取りにくそうなことに。
そして、今日は「人にやさしくする日」ですね? ◠‿◠
自分のお茶のついでにIさんのもいれました。(今まで気づかずスルーしてごめんなさい)
そしたら、ありがとうと言ってごく自然に時が流れました。私はそのことにすごくホッとしました。
人を思いやり、行動し、受け入れるのがごく自然なことに。
ちょっとした事だけれど、今日みたいなことが世界中に広まればどんなバリアがあっても暮らしやすい世の中になるんじゃないかな、と。人を思いやり、援助されたら受け入れる。それがごく自然な世界になるように、と。
些細な事からこんなに壮大なことを考えてしまった1日でした。

【筆名:まぁちゃん 年齢:23歳 都道府県:岐阜】

2018年9月12日水曜日

2018年9月12日(水)

この手紙を読んで下さる方へ

こんにちは。このステキなプロジェクトを通して出会える方、少しだけお付き合い下さい。
“水曜日”といえば、社会人2年目になる私にとって“ノー残業デー”という言葉が思い付きます。
あなたの水曜日は何か“○○デー”がありますか?
仕事も慣れたと思いきや、新しい事業も始めていかなくてはならず、結局バタバタとする日々を過ごしています。
私にとって今日の水曜日が“ノー残業デー”であると同時に、“思い出の日”であると信じたい、そう思います。
明日、大好きなおばから譲り受けた車を手放します。十数年頑張ってくれた軽自動車。田舎の坂道は馬力が足りずのろのろとのぼっていた車。おばは数年前に同居していた田舎を出て、関東に嫁ぎました。そんな相手がいるなんて全く知らなかったので、当時は驚いたけれど、何でもないようにしていて、でも本当は勇気を出して決断をしたのであろうその姿は、今でも覚えています。
そこで、大学生だった姉の元に行ったおばの車は、姉も社会人になり、関東に行くことになり、九州に残る私の元にやってきたのでした。
ペーパードライバーだった私は、隣に彼を乗せて運転の指導を受けながら、色んなところへ行きました。阿蘇、天草、実家の長崎、佐賀の彼の元へ...。
おばが通勤で使っていた頃から累計14万km以上。沢山の思い出が詰まった車。そろそろ安全性を考えて手放すことに決めたけど、ギリギリまで側にいたいと思い、今日まで私の元においておきました。突然亡くなってしまったおばの形見であるこの車を手放すのはやはり寂しいけれど、亡くなる前におばが残してくれたように、私も文字にして思い出を、あの車が私と、姉と、家族と、友人たちと、そして何より大好きなおばとの時間を思い出させるものになることを信じて、今日は手紙を書きます。
さっき読み返したおばからの最後の手紙は、何回読んでも涙で少しずつ汚してしまう。めいである私と姉を「可愛かった。会えて嬉しかった」と言ってくれたこと。普段は多くを語らないおばがそう遺してくれたことが、何より嬉しかった。本当にありがとう。これからも変わらず、大好きです。
今日の水曜日は、私にとって少し寂しい、愛しい、思い出の日であると信じます。お付き合い頂き、ありがとうございました。


【筆名:ちあき 年齢:24歳 都道府県:熊本】

2018年9月5日水曜日

2018年9月5日(水)

昨年3人目の孫が誕生した。他の2人は小学生で北海道の北のほうに住んでいるので年に数回会う程度であるが今度は同じ市内に住んでいる。長男夫婦は共働きなので保育園の迎えに協力することになった。私も現在仕事をしているが比較的夕方の時間は自由が利くので快く引き受けた。保育園の送迎はそれこそ30数年前のことで懐かしい。だが長男の子なので緊張感もひとしおで責任感も同時に感じるものである。それに毎日孫と会ってるわけでもないし、まだ10ヶ月の男の子。慣らし保育直後で嫁が迎えのときまだ泣きじゃくっているというではないか。祖父の私が迎えのとき泣いていたらどうしようとか、真新しいチャイルドシートに載せて我が家まで約30分の道のり機嫌よく過ごせるか、さらに初めて保母さんに挨拶でさえなんだか恥ずかしい。不安になってくる。病院の事務長の私は昼ごろから迎えのシミュレーションばかり考えていた。

私は大学時代保育園のアルバイトをしていた。将来保父になろうということではなく子供が好きなだけなので、そして妻が保育士として働いていた影響もあり、だから3人の子供たちも産休明け後から保育園生活だったので慣れてはいるつもりなのだが63歳の私は息子夫婦の期待に答えられるだろうか?とプレッシャーもあるのだろう。

当日、迎えの日。保育園の玄関から保母さんの事務室に向かってなんだか緊張しながらも『俊太郎の祖父ですが迎えに来ました!』緊張してるのになぜか大声になってしまったことがかえってよかったのか促されて保育室に入った時はなんだか気持ちがすわっていたようだ。0歳児室の数人の子がほとんど泣いていたのだがその真ん中でやはり俊太郎が泣いていた。瞬間的に『あー、泣いてる!どうしよう!!』でも同時に俊太郎の視線を感じたのだ。まるで『ジーちゃん、助けてー!』と訴えてるような顔を見たとき『しゅーん!』と呼び抱っこした。涙目の俊太郎が少し安心したように笑ってくれた。その後チャイルドシートへ移すのだがその前に『たかーい、たかーいしたり、いないいないばー!』とあやしてから移した。誰も見てないとばかりにジーさんの大声と孫の笑い。しかし、運転席に戻ろうとしたら同じく迎えの若いお母さんから暖かな微笑みをいただいた。恥ずかしいと思うよりなんだか私も安心した。帰りはジーさんは大きな声で歌い続け、後部座席の孫が不安にならないように赤信号のときは手を差し伸べて孫が握り返すのを確認しながら、必死に歌い続けた。本当に必死に歌った。

帰宅して1時間後仕事を終えた妻『おばあさん』が帰ってきて『どうだった?』に私はなんのなんのと答えたもの、孫とのひとときは2人だけの秘密である。気がつけば私の足元にハイハイの孫が寄り添ってきて私を見上げている。なんてかわいいのか!保育園の迎えで得た孫との絆である。今日は水曜日の夕方。

【筆名:不明 年齢:63 都道府県:北海道】